信越化学工業
金川千尋会長死去
常にグループの成長に貢献
信越化学工業の金川千尋(かながわ・ちひろ)代表取締役会長が1月1日午前6時5分、肺炎のため96歳で死去した。
葬儀は近親者のみの家族葬によってしめやかに執り行われた。後日、偲ぶ会が開催される予定。
金川会長は、1947年に旧制第六高等学校、50年に東京大学法学部を卒業後、極東物産(現・三井物産)に入社。62年に信越化学工業に入社し、海外事業本部(現・国際事業本部)において欧州、中米、南米における海外事業を次々と開拓した後、73年にシンテック社(本社・米国テキサス州)を自らの企画立案により米国企業との合弁で設立。それから3年後に合弁相手の持ち分を買い取ることでシンテック社を信越化学工業の100%子会社とし、78年にシンテック社の取締役社長に就任した。〝塩ビは社会と環境に貢献する優れた樹脂で、需要は伸び続ける〟という信念の下、塩ビの生産工場の大型の新増設を自己資金により繰り返し実施、フル生産フル販売を継続することによって、信越化学工業を世界一の塩ビメーカーに育て上げた。
信越化学工業における経歴としては、海外事業本部長、専務取締役、塩ビ事業本部長、同時に、代表取締役副社長などを歴任した後、90年に信越化学工業代表取締役社長に就任。日本のバブル経済が崩壊した厳しい経営環境の中、シンテック社の経営で実践してきた合理的な経営を信越化学工業に導入し、不況に強い企業体質を築いた。同時に、フォトレジストなどといった新規事業の育成にも取り組んだ。ITバブルの崩壊をはじめとした厳しい外部環境を乗り越え、94年3月期から15期連続の増益を達成し、信越化学工業の収益を大幅に拡大させた。10年に代表取締役会長に就任した後も、信越化学工業グループの成長に貢献してきた。
90年代後半からは投資家、アナリストとの対話を社長の仕事と定め、自らの言葉で経営と事業の説明を積み重ねてきた。経営における監督の重要性にいち早く着目し、01年にはダウケミカルの元会長兼CEOを社外取締役に招き、その後も各界の第一人者を社外取締役に招くとともに、02年には役員報酬委員会を設立するなど企業統治の強化と透明性を推進した。生産活動においては、安全を常に最優先とし、品質の重要性、環境対策、地域社会への貢献にも力を注いできた。〝経営者は働く人とその家族の生活と幸せを担う〟との責任感から自らを奮い立たせ、毎日の仕事に全身全霊を捧げてきた。
信越化学工業の社長や会長の務めと並行し、98年に「塩ビ工業・環境協会」の初代会長として塩ビに対する正しい理解の普及と産業の発展に努め、01年からは「FEC民間外交推進協会」の会長として世界の平和に向けた民間での各国との交流と相互理解を深める努力を積み重ねてきた。
信越化学工業・斉藤恭彦社長は「金川会長は、社長を務めておられた期間に、信越化学を世界的な化学会社に成長・発展させた。その間、その経営手法〝金川経営〟を社内に浸透させることにも心を砕かれた。私自身、幸運にも、長きにわたり会長の下でさまざまな仕事をさせてもらった。その中で得た経験と考え方は、私の仕事の背骨になっている。会長の経営なくして、今日の信越化学工業はあり得ない。会長の築かれた礎の上に当社をさらに発展させていく所存であり、金川会長の多大な貢献と功績に心から感謝し、ここに謹んでごめい福をお祈りする」とめい悼の意をコメントしている。